大資本による郊外店により中心地商店街は壊滅的打撃 |
長浜市は、豊臣秀吉の城下町として楽市楽座や琵琶湖交通の拠点として商業を中心に栄え、戦後は、それに加え、繊維のまちとして繁栄した。しかし、石油ショック以降の繊維産業の急速な衰退となり、郊外大店舗に押された中心市街地の商店街は壊滅的な打撃を受け、1988年には危機的な状況にあった。 |
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文化・歴史・国際性で大資本に対抗 |
その年に、旧百三十三銀行の黒漆喰の歴史的な建造物の保存を市から頼まれた青年会議所の会員企業家8人が出資して創ったのが「黒壁」株式会社。 |
彼らは、大企業に対抗するためには、大資本が絶対に出来ない戦略、つまり、文化芸術性、歴史性、国際性の3つを追求するということで一致し、長浜に固有のものにはこだわらず、初代社長の提案したガラス工芸で行こうとの決断を行なった。 |
町並み景観保存にも貢献 |
創業者たちは欧州のガラス工芸産地を視察し、ガラス工芸がその芸術性により生活を豊かにし、かつ商業的にも成り立つことを確信。その技術を導入し、ガラス館、ガラス工房、フランス料理店を開業。これにより月に4千人だった買い物客が、一気に2万人に増え、その後も急増傾向が続いた。 |
これに対応し、北国街道沿いの空き家を再生しながらガラスの販売店を拡大していった。これが図らずも「まち並み」景観の保存にもつながる効果を持った。これが「歴史性を生かす」という第2の戦略にも符合することになった。これをきっかけとした市と市民による景観保護協定へつながっていった。
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地元商店街の復興にも貢献 |
黒壁は当初は、地元商店街とは無関係に事業を面的に展開していった。これにより、中心商店街にも買い物客が戻り、投資を生むという効果が現れた。市外からの出展希望者も増え、今では空き店舗もすっかりなくなった。 |
1996年には黒壁グループ協議会が設置され、黒壁グループとしての統一的なブランド戦略を展開し、同じ年に始まった「秀吉博」による既存商店街も含めたネットワークが強化され、黒壁が果たす「まちつくり会社」としての役割も拡大していった。
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黒壁成功の要因 |
【1】黒壁は、民間の少数精鋭の創業者グループによる、民間主導のプロジェクトであり、市も一部出資したが、発言力はなかった。これが、これまでの多くの第3セクター・プロジェクトに比べ、決定の迅速性や、採算性の重視につながった。 |
【2】消費者の嗜好が文化性・歴史性・国際性などを重視し、生活の質を高めることなどに向いてきていることを旨く先取りして、消費者に満足感を与えたこと。
【3】従来の商店街の再生プロジェクトが、既存商店主の平均的な意見に基づいた平均的な手法になり、ほとんど効果がなかったのに対し、企業的なアプローチにより革新的なモデルを提供できたこと。 |
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